大判例

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神戸地方裁判所 昭和29年(ワ)464号 判決

原告 岩田稔

被告 松岡益雄

主文

被告は原告にに対し原告の長女岩田彬子(昭和十六年十一月二十八日生)を引渡せ。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、主文第一項同旨の判決を求め、その請求の原因として、

原告は昭和十五年十月十一日、被告の娘妙子と結婚し、爾来原告の勤務地である北海道に於て同棲生活を送り、翌昭和十六年十一月二十八日長女彬子が生れたが、妻妙子は産後結核に犯され昭和十七年九月十七日死亡した。そこで原告は妙子死亡後彬子を手許で養育することはできなかつたので、ほんの一時のつもりで被告にその養育を依頼し、養育費として毎月六十円を送金していたが、なお妙子及び原告の家財道具の大半をも当時新潟市に在任していた被告方に預けていた。そしてその後必要に迫られて原告の荷物及び彬子の引渡方を求めたところ、被告はこれに応じなかつたので、遂に当時の被告の住所のあつた神戸区裁判所に調停の申立をして彬子の引渡方を請求したが、やはり被告は頑としてきゝ入れず、ために調停は不調となつたので、やむなく昭和十九年頃、原告の荷物を預つていた岡山県下に在住していた訴外佐々木清市を相手として津山区裁判所に対し荷物引渡の訴を提起し、右訴訟進行中の昭和十九年十月三十日、同区裁判所に於て、被告を和解参加人として、

(1)  原告の長女岩田彬子を満二十才迄和解参加人に於て養育することにつき原告に於て異議なきこと。

これに関する養育費用を一ケ月金五十円と定め、昭和十八年十二月より昭和十九年十一月分迄合計金六百円を昭和十九年十一月十五日迄に、昭和十九年十二月分以後は毎月二十五日迄にその月分を何れも原告に於て和解参加人に対し送金して支払うこと。

(2)  岩田彬子が満二十才に達したる以後は原告及び和解参加人は彬子の居所については彬子の意思を尊重してこれに従うこと。

等を内容とする裁判上の和解が成立した。

その後、原告は右和解条項に基き毎月所定の養育費を被告に送金していたが、戦争終了後物価の昂騰したことを考え合わせ、昭和二十六年九月以降は毎月金三千円を、又ある月は金六千円乃至七千円を送付していたものである。かようにして原告は未だ一回も送金を怠つたことがないのに拘らず、被告は昭和二十二年頃から毎月のように朱書した葉書を原告の勤務する会社気付原告宛に発送してわざと人の目につくようにし、而もその内容は激越なる表現をもつて原告を誹謗し、更に原告の上司等に対しても、同様非礼な文書を発送して原告の名誉を傷つけ、原告に対し甚だしい精神的苦痛を与えているのである。かように被告は普通常識をもつてしてはとうてい考えられないような性情の持主であるから、このような被告に原告の子供の養育を委託していることは父親としてまことにしのびがたいところであるばかりでなく、一会社員にすぎない原告が、この被告に多額の養育費を強要されることはとうてい堪えられないところであり、且つ原告は現在彬子以外に子供がなく、彬子もまた一時も早く原告の許え帰ることを希望しているから、原告は父親として子供のためにも一時も早く同女を手許に引取つて真の親の愛情をもつて養育にあたり、もつて父親としてのつとめを果したいと切望しているのである。

よつて原告は、本訴において前記の彬子養育の委託契約を解除しその親権に基いて彬子の引渡を求めるため本訴請求に及んだ次第であると述べた。〈立証省略〉

被告は、請求棄却の判決を求め、答弁として、原告の主張事実中原告主張のような身分関係及び被告が訴外岩田彬子を自己の手許で養育していること並に昭和十九年十月三十日、原告主張のような内容の裁判上の和解が成立したことはいずれもこれを認めるが、その余の事実はいずれもこれを争う。

原告は彬子出生後同女が新潟市の被告方で養育せられていた当時、ときどき来ては彬子と会つていたことがあり、又昭和十七年秋被告一家が神戸に移住して来てから一度だけ九州出張の帰途被告方に立寄つて彬子と面会したことはあるが、原告が後妻を迎えてからは面会は勿論のこと、彬子と文通したこともない位いである。なお、被告家族は現在、被告とその妻、三男(会社員)、次女(学生)、四男(同上)、五男(同上)、彬子の七人であり、彬子はその出生以来ずつと被告方で養育し、目下魚崎中学校の二年に在学中であつて、同女を今俄かに継母のいる而も愛情のない原告のもとに引渡すことはできないと述べた。〈立証省略〉

理由

原告が昭和十五年十月十一日被告の娘妙子と結婚し、そ後の昭和十六年十一月二十八日長女彬子が生れたが、妻妙子が昭和十七年九月十七日死亡したので、爾来彬子は被告のもとで養育せられ現在に至つていること及び昭和十九年十月三十日、津山区裁判所に於て、原告、被告並に訴外佐々木清市との間に、原告主張のような内容の裁判上の和解が成立したことはいずれも当事者間に争のないところである。

原告は、右裁判所上の和解に於てなした彬子の養育に関する原被告間の委託契約を解除した上、その親権に基ずき彬子の引渡を求めると主張するのに対し、被告はこれを争つているので、先ずこの点の法律上の問題について判断するに、

およそ親権者たるものは、未成年の子の監譲教育をなすべき権利を有するとともに義務を負うものであるから、仮りにその未成年の子の養育を他人に委託した事実があつたとしても、親権行使の濫用と認むべき特段の事情がない限りいつでも右委託契約を解除した上、養育する者に対し子の引渡を請求することができるものと解すべきところ、本件においては、右委託契約が裁判上の和解に於てなされているので更にその当否について考えてみるに、一旦裁判上の和解が成立した以上右和解に関与した当事者は、和解の趣旨を尊重し、その条項をみだりに変更したり覆えしたりすべきでないことは言うまでもないところであるが、裁判上の和解と云えどももともと私法上の契約たる一面を有するものであるから私法上の原則に従つてその解除の是非を決すべきものである。従つて本件に於ては、前記のように父親たる親権者がその子の引渡を求めるため養育の委託契約を解除するというのであるからその養育委託契約がたとえ裁判上の和解に於てなされたとしても解除が社会通念上相当と認められる限りは親権者の側から一方的に解除することを妨げないものと云わなければならない。従つて以下本件事案につき、これらの点に関し具体的に検討してみることとする。

先ず成立に争いない甲第一号証乙第一、二号証に証人岩田彬子の証言及び弁論の全趣旨によれば、同女は現在十三才で、魚崎中学校の二年に在学中であるが、その智能の発育は一般児童に比し甚だしく遅れていることが認められる。従つて本件に於ては同女の意思を考慮する必要なきものと認め、以下本件委託契約の解除による引渡が相当かどうかを諸般の客観的事実に基いて判断することとする。

成立に争のない甲第一乃至第四号証並に原告本人訊問の結果を綜合すれば大要次のような事実を認定することができる。即ち、

(1)  原告は昭和十四年三月京都帝国大学工学部を卒業して直ちに三井鉱山株式会社に勤務した者であつて、妻妙子の死亡後娘彬子の養育を被告方に委託したのは、当時単身で北海道で勤務していた関係上原告のもとで同女を養育することが事実上困難であつたこと。

(2)  原告は妻妙子と死別後娘彬子を妻の実家である被告方に預けて専心仕事に没頭し独身生活を続けていたが昭和十九年十二月に至つて後妻を迎えた(戸籍上の届出は昭和二十一年七月三十一日)もので、その以前に被告の勧める候補者を断つて再婚したためかその頃から被告と不仲を来したこと。

(3)  原告は後妻を迎え彬子を手許で養育できるようになつたのでその頃から親族を介して被告に対し彬子の引渡方を求めたが、被告がこれをきゝ入れなかつたので、更に神戸区裁判所に彬子の引渡と原告の荷物の引渡を求める調停の申立をしたが、これまた不調に終つてその目的を遂げなかつたこと。

(4)  その後昭和十九年に訴外佐々木清市を被告として津山区裁判所に原告の荷物の引渡を求める訴を提起し、その際和解参加人たる被告との間にさきに認定したような裁判上の和解が成立したが、これは被告が頑として譲らなかつたので原告としては甚だ不本意ながらこれに応じたものであること。なおその後も原告はその知人或いは兄弟に対し、彬子の引渡方を被告に請求してくれるように頼んだが、いずれも皆「相手が松岡なら話は纒らない」と言つて仲介に入ることさえ辞退する有様で、温厚で気の弱い原告はやむなく隠忍して毎月養育費だけを被告方に送金していたこと。

(5)  一方被告は、原告の再婚の頃から原告に対して悪感情を抱くようになつたため前記調停及び訴訟事件が起された後の昭和二十二年頃から毎月のように朱書した葉書を原告の勤務する会社気付原告宛に発送し、激越な文句で原告を誹謗し、或は時には会社の社員一同に宛て原告を辱しめるような内容の手紙を書き送り、原告に対し甚だしい精神的苦痛を与えてきたが、原告は被告の激しい性格を知つていたのでこれに自重してきたこと。

(6)  原告は現在その勤務する会社の工務部電気課長代理の地位にあり、後妻との間には未だ一子も恵まれておらず、娘彬子を手許に引取つて養育することを熱望していること。

以上認定した事実によれば、原告は相当な学歴と正業を有し、従つてその生活ないしは子の監護教育については何等危惧すべきものの存しないことが明らかであり、更に前記和解が成立した当時或はその前後を通じ、原告はいろいろな手をつくして彬子の引取方を求めて来たが、被告の異常な性格に患いされて遂にその目的を遂げず、自らの性格の消極的なことも手伝つて常に不本意ながら今日に至つたことを窺うに十分である。それ故、他に特段の事情の認められない本件に於いて、この原告のもとで彬子を養育させることは、親子という直接の血につながる原告と彬子との間に真実の親子の愛情を呼びおこす所以でありそれが彬子の将来の幸福をもたらすものであるといつて好いから、原告の主張する本件養育委託契約の解除を認めるに何等の差支えもないと言わなければならない。

被告としては、永年自らの手許で養育してきた彬子を今俄かに原告の手許に引渡すことは、情に於てしのび難いものがあろうが、前認定の事情の本件にあつては彬子はいずれは親の許にかえるべきものであり、親としての原告の要求には譲歩しなければならないものと解する。

以上のような理由により、前記養育委託契約を解除した上その親権に基いて被告に対し彬子の引渡方を求める原告の本件請求は正当としてこれを認容すべきものである。よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十五条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 石田哲一 中村友一 土橋忠一)

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